掛巻きも畏き真徳稲荷神社の縁起を謹みて記す
真徳稲荷神社の起源は古く先人の生活の中に始まり、神田明神の鎮座と時を同じく、京都伏見稲荷大明神のご分霊と古老の伝えるところである。明治六年一月六日神田明神の兼勤社となり、五穀豊穣、悪疫鎮護、商売繁盛の神として崇敬者も広く今日に伝えられる。
大正十二年九月一日の関東大震災は、死傷者、物害共に史上最大の災害にも拘わらず、当町内の犠牲者きわめて少なかりしは、偏に真徳稲荷ご加護の顕示に崇敬の念愈々厚く深きを加えたり
降って第二次世界大戦勃発,昭和十六年十二月八日、我が国も米英と交戦の己むなきに到りしが戦況我に利なく昭和二十年二月二十五日の空襲により社殿は焼失するも幸い御神霊は無事にて、仮社殿を直ちに造営奉安の上神事を滞りなく執り行う。偶々町内に鎮座まします二稲荷神社も戦災を蒙り、同仮社殿に合祀し、心ならずも時の到るのを待つ
昭和二十八年、近隣に火災ありしも、神域よく防塞となり、大火に到らず、御神徳の広大無辺に崇敬者益々敬神の念昻せるも宜なる哉。
昭和二十七年、サンフランシスコ講和条約により独立を回復、占領下の町会結成禁止も解け、司町二丁目町会の再発足に際し、崇敬の念 夙に厚き初代町会長柴田直は、仮社殿に三稲荷合祀を深く憂え、伏見大社に恐懼拝聴せし処合祀三御神霊を伏見大社へ還御相願い、改めて神格高き御神体の御分霊を冀うべしとのご沙汰あり、依って神田明神大鳥居宮司の命を受け、石橋権宮司の奉斎にて厳かにすべての神事滞りなく執行の上、正使柴田直、副使草壁竹蔵佐伯清重、中山菊次郎、堀井平吉、小林長右ェ門の六名、精進潔斎して棒持、伏見大社御前において厳粛壮重に還御の神事執行、新たに真徳稲荷神社を司町二丁目町会の守護神として、神格ある御神霊を畏み畏み拝受し奉る。
正使柴田直は御神霊拝受に当り、新社殿の造営を心奥に固く誓い、遍く崇敬者の上に御神徳の顕現を冀いつつ、無事帰京、直ちにを神意を奉じ、社殿再建委員会を結成、大野儀重委員長のもと、柴田直一切の全責任を負い、社寺建築の専門技師林島作の設計により、誠心誠意施工に専念、偶々同氏は、千代田区議会議員、地元小、中学校PTA会長、司町二丁目会長をはじめ生田公職を兼任、寧日なき立場を克服して、よりよき社殿造営に只一念神意にし同化し、
春風秋雨、暁鶏夕星、寸暇を惜しみ、八か月の建設期間、精魂を傾けてその衝に当り遂に見事に社殿落慶を見るに到る。
この間町会員よく同調、すすんで浄財を寄進、寸暇を割いて、地固め、資材運搬、コンクリート打ちなど馴れぬ作業に惜しみなく奉仕し、加えて永田軍治の氏緻密な塗装等、物心両面の奉賛により荘厳華麗な不燃社殿造営の快挙を成し遂げたり。
さらに亦、境内敷地は当初より長年月、地主峰村 陸氏の好意により無条件貸与のまま今日に至りしが同氏は既に
永眠せられ、未亡人マサ氏、嗣子暢一氏のとくべつの配慮にて、敷地七坪八合を分筆して司町二丁目町会に無償贈与され、これを機に神田神社を通じて、神社本庁に神の籍の確立するところとなれり。
因みに
千代田区には、神田神社を筆頭に神格保持社十三社あり、その一に列する当真徳稲荷神社は、日を追って弥益す崇敬者の敬神昂揚基盤と確信し、茲にその経歴を記して後世に残さんとするなり。
昭和四十九年三月六日
氏子総代 柴田 直
責任役員 古川 美佐男・大野 儀重・須藤 源平・萩原 徳太郎・永田 軍治
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社殿再建委員会(順不同)
委 員 長 大野儀重
顧 問 柴田 直・草壁竹蔵・佐伯清重・柴 高次郎・大津福造・小笠原正次・岡田 弘・江原金次郎
相 談 役 中山菊次郎・斉藤次郎・堀井平吉・小林長右衛門
副委 員長 鳥海三郎・長谷川金太郎・古川美佐男・須藤源平
委 員 堀越林造・若林 錫・竹内作治・今井喜太郎・奥村大平・宮島稲太郎・杉田正吉・永田軍治・
春原伝十郎・大井四郎・高田宗平・卯木定良・八十島嘉吉・浜野慶太郎・熱田米次・根岸金貞・
原 兼吉・桐谷弥一郎・藤沢霊穣・峰村 陸・鳥山波五郎